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2006年9〜10月


  • 2006−10−25(水)の夜
     (続き)

     志願者が作る応募書類もいろいろで、キチッとまとまっていて自信と風格を漂わせる書類もあるし、そうじゃないものもある。「誰々の書類はプロフェッショナルに見えるね」という表現が使われるたりするが、そこでいう「プロフェッショナル」とは、業界のしきたりをちゃんと理解していて実行しているということ。大学院に入ったばかりの院生はもちろんそんなしきたりは知らないわけだが、大学院生活の間に習ったり身につけたりしていくものとされる。それが出来てない志願者は、きっと学問的にもダメだろうと考えられる。
     履歴と業績をリストした書類のことをこの世界ではCVと呼ぶのだが(curriculum vitaeの略)、志願者のCVの書き方が普通じゃないと、それだけでイメージがガタ落ちになる。もちろん、CVの書式についてはいろんなやり方があるわけで、単に好みの問題かもしれないけど。
     僕が応募書類をチェックしててどうしても好きになれないのが、"Publications"の項目のところに正式な出版物以外のものを載せているモノ。R&R中の論文とか、ひどい場合は単に投稿しただけの論文を"Publications"の項に列挙しているCVがある。これについても、そうしろと院生にアドバイスする教員がいるんだろうけど、僕はこのやり方には非常に嫌悪感を持っている。まあ、就職活動するにあたって"Publications"の項に何か欲しいのは分かるけど、かといって正式な出版業績じゃないものを記載していいわけはないだろう。あと、実際にそういうCVを作る人はほぼ確実に、正式な出版物が一本もない人で、論文を既にジャーナルに載せている人はそういうことはしない。就職活動をする段階でPublicationが一本もないことは別に珍しいことじゃないんだから、正々堂々と「まだ出版物はないけど、ポテンシャルはあるんだ」という態度でいるべきだと思う。僕はそうした。
     僕が大学院時代にお世話になった教授も、出版物じゃないものを絶対に出版物の項に書くなと言っていた。「R&Rであっても、まだ掲載されるかどうかは半々だったりするんだから、決してそれはPublicationじゃない」と。

     (上記はあくまで政治学の世界での話です。他の分野のことは分かりません。)

  • 2006−10−21(土)の午後
     この季節はアメリカの政治学業界では就職活動の時期である。うちの学部でも数人の院生が、博士号取得を控えて頑張って職探しをしている。そのうちの1人は来週、中西部の大学に現地面接に行くことが決まっていて、昨日は学部内で模擬プレゼンをし、そのあと僕を含めて4人の有志の教員が2時間くらい彼につきっきりでスライドに修正を入れさせるなどのアドバイスをした。僕も就職活動のときはこうやっていろんな人にお世話になったので、今度は僕が院生にアドバイスする番だ。
     同時に、うちの学部の公募にもたくさんの応募が来ていて、僕も選考委員なので応募者の書類を見なければならず、けっこう時間が取られたりする。でもまあ、面白い仕事でもある。各応募者につき3通くらいの推薦状がくるのだが、学界でもトップクラスの超一流教授が書いた推薦状もあり、そういう人が書いた手紙を読むなんてなかなかあることじゃないので、なんだかワクワクしながら読んだりする。へー、この人はこんな推薦状の書き方をするのかー、なんて具合に。推薦状の中には、「この人は誰にでもこんな褒め言葉を使ってるんじゃないか」と思わせるような手紙もあるし、「こういう書き方をしてるからには、褒め言葉も信用できるな」と思わせるようなものもある。例えば誰かと比較したりとか、所属学部の中で順位を付けたりとか。

     続く(たぶん)

  • 2006−10−16(月)の夕方
     今日届いたPS誌(アメリカ政治学会が発行する雑誌の1つ)に、"Uncle Wuffle's Advice on Job Talks"という短いエッセイが載っていた。同じ著者が同誌に過去、"Uncle Wuffle's Advice to the Advanced Graduate Student"(1989)と"Uncle Wuffle's Advice to the Assistant Professor"(1993)というエッセイを載せているのだが、シリーズ第三弾のようだ。1989年の大学院生向けアドバイスを、僕は大学院時代に研究室の壁に貼っていたのだが、この人のアドバイスはためになるだけじゃなくてユーモアが効いていて面白い。今まで知らなかったのだが、"A. Wuffle"を名乗るこの著者は、著名な政治学者であるBernard Grofman教授がこの種のエッセイを書くときに使うペンネームらしい。

  • 2006−10−15(日)の午前中
     僕の実家のある町では、合併反対派の町長と、合併推進派が多数を占める町議会とが対立して、どうにもならないので町長が辞職して町長選挙を再度やることになった。今日がその投票日で、再立候補した町長と、議会の議長とが一騎打ちし、議長が500票差で当選した。僕は合併したほうがいいと思っているので、この結果に安心。
     それにしても、首長と議会が対立して動けなくなる状態をみると、大統領制の欠陥としてよく指摘される点がそのまま現れているのだと思う。田中知事時代の長野県の例もあるし、市町村レベルで見ると日本中でかなり起きているのではないだろうか。首長と議会をそれぞれ別の選挙で選ぶから、両者が反対の意見を持つということが普通におきうるわけだ。両者が合意に至るならいいけど、そうならない場合も多い。どっちも選挙で選ばれているから、「選挙民の信託を受けているんだ」と両者共に突っ張りかねない。Juan Linzが大統領制の問題として指摘した「二重の正統性」の問題そのままだ。
     最近ではあまり言われなくなったが、首相公選制を日本に導入すべきという人々は、「アメリカの大統領のように、首相を直接選んで、首相に強いリーダーシップを持たせよう」と言ったりする。この意見は、大統領制について誤解している。大統領の党が議会でも多数派になっていればそれでいいけど、そうじゃない場合、大統領の指導力は非常に弱まるのである。クリントン大統領は就任3年目からは議会の多数派が共和党に移ったために議会との交渉に非常に苦労した。ひどいときは予算が通せなくて、首都のゴミ収集までストップしてしまった。また、メキシコの場合、議会の多数派が反対党の大統領を困らせるために、「大統領の外遊は議会が許可しなければならない」という、死文になっていた憲法の条文を持ち出してきて、大統領の外交日程を無理矢理キャンセルさせてしまったりした。
     強いリーダーシップというなら、大統領制よりも、むしろイギリスのような二大政党的議院内閣制のほうでこそ実現できると言える。大統領制はもともと権力分立・権力間の均衡を実現するためにできた制度であるので、それに強いリーダーシップを求めるのは話が違う。
     日本の地方自治制度も、いろいろ工夫すべき点があると思う。このへんの話もいつかじっくり研究してみたい。

  • 2006−10−9(月)の夜
     アメリカと中国の国交正常化はニクソン大統領だったから可能だった、ということがよく言われる。ゴリゴリの「反共派」のイメージで知られていたニクソン大統領だったから、そのニクソンが中国との国交正常化をするのならば、それは国益のための判断なんだろうと思われた。逆にもしも、親中国とか「容共」のイメージを持たれている大統領がそれをやってたら、「共産主義者と手を結ぶなんて!」とか「国益を考えずに自分の主義で外交をやってる」とかいう保守派からの批判が、ニクソンが受けた批判を遥かに上回る規模で巻き起こって、実現不可能だったのではないか、と。
     安倍首相の訪中・訪韓に関するニュースを見ていて、同じことが日本の対中・対韓関係についてもいえるのかもなー、と思った。アジア外交において強硬派というイメージを確立してきた安倍首相だからこそ、中韓との関係改善に適役なのかもしれない、と。もし、福田氏か谷垣氏が首相になって、今回安倍首相がやったのと同じ内容の外交をやっていたら、きっと保守派からさんざんな批判が出ていたと思う。「就任直後に中韓を訪問するのは、中韓に対してへつらった態度だ」とか「歴史認識で譲歩しすぎ」とか。強硬派イメージで知られている安倍氏だから、保守派からは「安倍だから大丈夫」と思ってもらえて、その種の批判をかわしつつ、実質的な関係改善の利益を上げられるのではないか。
     その線で考えると、安倍氏はこのまま靖国参拝をしないのではないか。「参拝したかどうかは言わない」との姿勢をずっとこのまま維持して、対外的には参拝していないことにして、そして国内では必要に応じて「実は既に参拝したらしい」とかいう曖昧な話を意図的に流して保守派を安心させる、という状態を続けていく、とか。それに、北朝鮮がおかしな行動をし続ける限り、強硬派イメージの維持と、保守派サービスの材料には事欠かないわけだし。「参拝したかどうかは言わない」という作戦は、いったい誰の発案なんだろう。凄いなー。

     全然関係ない話だけど、毎年この時期には、翌年度に教える授業の割り振りが行われる。アメリカ政治・比較政治・国際関係・政治思想・方法論のそれぞれの分野ごとに教員が集まって話し合うのだが、僕は比較政治と方法論の2分野に属しているので、両方の会議に出ることになる。
     今年もうまい具合に誰とも希望が重ならなかったので、希望通りの授業割り当てを獲得することができた。これまで毎学期繰り返してきた「比較政治学入門」を引き続き担当するのに加え、2007年秋学期には大学院生対象の「比較政治制度」のセミナーと、2008年春学期には大学院一年生必修の統計的方法論を教える。新しく準備が必要なのは「比較政治制度」だけなので、来年度はけっこう楽になりそうだ。で、うまくいけばその次の年度からはずっと、準備済みの科目を定期的に繰り返していくだけでよくなる見込み。そうなったら、授業の負担が軽くなる分だけ研究に専念できるのでかなり助かる。

  • 2006−10−3(火)の夕方
     大学院時代にある教授の研究の手伝いをして、その関係で僕も共著者の1人に名を連ねることになった論文が、ついにやっとジャーナルに掲載されることが決まった。しかもまあまあ有名どころのジャーナル(トップクラスではないけど)。その研究に加わってからもう5年くらいになるので、ほんとうにヤレヤレという感じだ。2年前に就職活動をしてた頃は、「就職活動に間に合うように掲載が決まってくれればよかったけど、そうじゃなかったので、なんだか時間を損した感じだ」というくらいにも思ってたけど、無事に就職も決まったので、今となってはこのタイミングで決まってくれてむしろ良かった。最近はその研究絡みの仕事は僕はまったくしてなかったけど、一応は就職後の業績と数えられることになるだろうから。これで、来年一月に学部長たちと査定に関する面談をするときに「針のムシロ」気分を味わわなくて済みそうだ(でも気を抜かずに自分の研究もちゃんとやらねば!)。

  • 2006−9−27(水)の夜
     学部長から全員にメールが来て、各教員のオフィスで電子レンジや湯沸しポットを使うことが禁止されてしまった。最近、ブレーカーが落ちたりとかの問題が出ていて、それへの対処とのこと。建物が古くて、そこまでの電力需要に耐えるようにはできてないのだそうだ。
     自分のオフィスで電子レンジと湯沸しポットを愛用してきた僕には痛手だ。冷蔵庫がOKなのがせめてもの救いだが、これからは電子レンジを使いたいときはわざわざ学部事務室まで行ってそこのレンジを使わねばならない。面倒くさいー。
     同僚たちの多くが自分のオフィスでコーヒーをいれたりしてたので、僕だけじゃなくてけっこうこの決定に困ってる人は多い。しかも、僕らのオフィスは狭い上に窓が無い。「もっといい建物に移りたいねー」と、今日は廊下で同僚達と話し合っていた。

  • 2006−9−21(木)の夜
     昨日のことだけど、大学のニュースサービス部から研究室に電話がかかってきて、「タイでのクーデターについてコメントしてくれないか」と頼まれた。
     州立大学としての地域への貢献の意味もあるのだろうが、うちの大学では国内や世界の大きな事件や話題の出来事について、それを専門とする教員が解説して大学のウェブサイトに掲載するということを行っている。地元の新聞やテレビが、そこに載ってる教員に追加取材したりもする。
     しかし、さすがにタイのことは僕の専門外だ。しかも今回のクーデターについては忙しくてあまりニュースを見てもいない。「ちょっと自分の専門から外れるので・・・」と言ったら、「でも、あなたが知ってると聞いたんだけど」と返された。確かに、僕は先学期「アジアの政治」を教えたわけで(でもタイは扱わなかった)、政治学部内でアジア地域出身の教員は僕だけだし、学部内で一番タイの政治について知ってるのは僕だろうけど、それでも自分がタイのクーデターについて専門的なコメントをできるとは思えない。結局断ってしまった。そのあと、国際紛争の理論的研究をしてる同僚のところに電話が行ったらしい。もちろん彼も断ったそうだ。
     安倍新首相についてとかだったらいろいろ言えることはあるんだけどなぁ。来週電話かかってくるかな?

  • 2006−9−16(土)の夕方
     年度初めなので、会議の予定がけっこう入って忙しい。学部内では毎年いくつも小委員会が作られて、各教員が2つくらいに所属する。常設の委員会の他にも、新教員の採用やコンプの採点などのために臨時の委員会が作られることも多い。
     うちの学部は教員同士みんな仲良しで雰囲気がいいから、とてもやりやすい環境なのだが、それでも意見の不一致がないわけじゃない(不一致の無い組織などむしろおかしい)。でも仲が良いので、意見の不一致が喧嘩や派閥に発展したりはしない。
     会議に出ていて、そういう意見の不一致が出たときにみんなの話すことを聞いてると、難しいなぁーと思う。ヒジョーに微妙な言葉の使い方で、事を荒立てないように、誰にも嫌な思いをさせないように、そういう言い方で意見を交換し合う。外国語で会議に参加してる僕からすると、そんな言葉の使い方は到底無理だ、と思ってしまう。聞いていて、ああ、この人はこういう言い方でああいう意味のことを主張してるのか、という具合に理解することはだいたいできるが(もちろん、何割まで理解できてるのかは自分には分からないけど)、自分がそういう話し方で主張することができるとは思えない。
     また、もしもこれが、権力闘争と派閥抗争の凄まじい組織だった場合、自分もきっと戦いに巻き込まれて、微妙な話し方を駆使しつつその人間関係の中を生き抜いていかねばならないんだろう。それは恐ろしいストレスになるに違いない。そういうとこに就職しなくてよかった。

     外国語を習得するうえで、まずブロークンでも何でも、「意思疎通できる状態」(自分の言いたいことを相手に理解させ、相手の言いたいことを理解する)というのが第一段階としてまずあって、その上に文法・語法・発音的に「正しく話せる状態」が第二段階であるのだと思う。しかし、正しく話せるようになってもまだ更に、うまく言外に匂わせたりとか、YesともNoとも言わないのにあたかもちゃんとした答えを与えたような気にさせたりとか、そういう高度な技巧の段階があるようだ。もちろん、英語を母語とする人でもこの段階の話し方ができるとは限らないわけだが(日本人の日本語においても同様)、この先もし僕が管理職になるようなことがあったら、または人間関係の難しい学部に移籍するようなことがあったら、そういうレベルの話し方が必要になるのかもしれない。

  • 2006−9−12(火)の朝
     土曜日の夜は政治学部の学部長自宅でパーティー。翌朝は二日酔い。
     秋学期は3週目に入った。今のところどっちのクラスもいい感じに進んでいる。日本政治のほうでは、昨日のクラスで幕末から明治初期の改革のあたりについて話したのだが、ペリーの黒船来航について話していて、「このマシュー・ペリーという名前を聞いたことある人、手を挙げて」と言ったら、予想を遥かに超えて3分の2くらいの手が上がってビックリ。日本では誰でも知っているけどアメリカではあまり知られていないアメリカ人、というふうに話すつもりだったのに予定が狂った。

  • 2006−9−6(水)の夜
     裏庭の小さな菜園で作っている小松菜、ついに初めて食べてみた。

    こんなに伸びた。種蒔きから1ヶ月と3週間くらい。

     最初に食べるときは、僕がお浸しにして妻に食べさせようと計画していたのだが、妻が味噌汁にしてくれるというので頼んだ。仕事帰りで疲れてたし。


     種蒔きの日以来のことを思い浮かべながら、おそるおそる口に入れた。なんと、素晴らしく旨かった!ほのかな甘さが口に広がって、思わず目を見開くほどの味だった。妻もとても喜んでいた。

     最近、菜園の手入れをする意欲が低下してきていたのだが、これでまた熱が入りそうだ。

  • 2006−9−5(火)の夜
     アメリカ政治学会に参加するため、フィラデルフィアに行ってきた。2年か3年前にもここが会場で、そのときにフィラデルフィアの観光名所は観て回ったから、今回は観光に出ることもなく、学会会場付近にずっと居た。興味のある分科会を見て歩いたり、大学院時代の先輩や後輩と会って飲んだり、日本人研究者の集まりで飲み食いしたり。
     自分の発表もうまくいったと思う。僕の研究に興味を持ってくれた研究者たちと人脈を築くこともできて、非常によかった。

     日曜日の朝、電車に乗って北上。2時間半くらいでニューヨークに到着。ニューヨークでは、昼と夜にそれぞれ友達と待ち合わせて飲んで食って喋った。
     ニューヨークにはもう何度も行ってるが、今回ぜひ行ってみたいと思って初めて行ったのが、クイーンズにある「ジャクソン・ハイツ」という地区。ニューヨークには、いろんな国からの移民が住んでいるが、このジャクソン・ハイツは特にいろんな民族が入り混じって住んでいることで有名な地区なのだそうだ(Wiki情報)。確かに、白人はほとんど見なかった。で、その一角にはインド人街があって、まるでインドのような光景が広がっていた。


     ターバンを巻いた人が非常に多かったので、シーク教徒の比率が高いのかもしれない。また、「パーン」というインドの嗜好品を売る屋台まであったのにはビックリ。インドではどこでも普通に見かけるけど、この屋台がアメリカにあるとは思わなかった。僕はアメリカ国内の移民コミュニティーに興味があるので、このジャクソン・ハイツ探検はとても興味深かった。インドカレーの味も最高。久しぶりのマサラ・ドーサに舌鼓を打った。

     夜、チャイナタウンで飲み食いしたあと、友達と別れてニュージャージーへ。今回の旅のもう1つの目的は、ニュージャージー州の最大都市であるニューアーク市を見物すること。その日はもう夜遅かったので、ホテルにチェックインしてすぐに寝た。歩き疲れてクタクタだったし。
     朝になって、ニューアーク市内をブラついた。レイバーデイの祝日だし早朝だったので、人通りは少なかった。
     この街は、ニュージャージー州の最大都市でありながら、ニューヨーク市の衛星都市という感じであり、ニューアーク空港が「ニューヨークの3つの空港のうちの1つ」というふうに呼ばれてしまう、ちょっと可哀相な街である。多くの訪問者が、この街を素通りして空港からニューヨークに直行してしまうわけだ。僕がホテルにチェックインしたとき、「一日中歩いて疲れたよ」と言ったら、フロントの兄ちゃんが「ニューヨークを歩いてたんだろ?観るところがたくさんあるからね」と返してきた。州の最大都市でありながら、宿泊客が「一日中歩いてた」と言ったらそれはその街のことじゃないのが明白なのである。
     ニューアークでは、60年代に人種暴動があり、それから衰退の一途を辿ったらしい。90年代から復興が進められているそうだが、やはりどうも活気のない街だった。犯罪率も高めだそうだ。黒人人口率は5割を超える。実際、僕が街を歩いてる間、ほとんど白人を見なかった。

    保釈サービス屋さんの看板。「ブタ箱に入れるのがお前の仕事、それを出すのが俺の仕事」というキャッチフレーズが素敵。

    アフリカ系の人専用の床屋さんの看板。「セネガル・ツイスト」というのはどんな髪型なんだろう?

    ガーナ出身の人が集まる教会だろうか?

     「アフリカ本場の味」と宣伝する食堂があったりしたし、きっとアフリカからの移民が多く住んでいるんだろうと思った。店などが開いてる時間帯に歩いたらもっと面白かっただろう。

     それから電車でフィラデルフィアに戻り、飛行機でテキサスに帰ってきた。疲れたけど、非常に有意義な5日間だった。


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