秋野豊先生の思い出

 1998年、秋野先生がタジキスタンで亡くなられたのは、僕がちょうど筑波大学を卒業した頃だった。その事件は新聞の一面トップだったし、テレビでもトップニュースだった。そのニュースが入ってから、大学の同期の連中との間でメールがたくさん飛び交ったが、それらのメールを読み、自分でもメールを書いているとき、先生との様々な思い出が浮かんできて、先生から受けた影響の計り知れない大きさを思い、キーボードを叩く手が止まって、泣き伏した。

 秋野先生が筑波大学の国際関係学類(通称・国関=コッカン、現在は改組されて国際総合学類)で教えられたのは1986年から98年の間で、僕は93年入学組なので、先生の最後の学生の世代である。僕が中学生・高校生の頃、激動するソ連・東欧情勢について先生はテレビで頻繁に解説されていて、それも僕の志望動機の1つだったと思う。僕らが入学した頃は、先生はチェコの研究所に長期出張中で、たまに一時帰国されたときに短期集中の授業が開講される感じだった。初めてその授業を受けたとき、先生はアロハシャツ・ジーンズ・バスケットシューズのような格好で教室に現れ、まだ学生達が席につかずに教室がザワついているのを気にも留めず、「はい、始めますよー」と言うなり、前置き(日程・評価基準の説明など)を全くしないまま、突然本題に入りだした。柔道とラグビーで鍛えたその肉体はまるで戦車のようで、特に大胸筋の盛り上がりと首の太さは人間離れしていた。とにかく何から何まで型破りだった。

 授業内容も、学説の紹介などするわけでは全くなく、チェチェンやグルジアなどの紛争地帯に単身乗り込んで調査してきたときのエピソードをひたすら話し続けるものだった。自分で撮ってきた写真を見せて、「この男は凄いやつですよ」とか解説した。そして、考えさせた。「こういう状況で、反乱軍側のリーダーはどう考えると思いますか。君はどうですか」と突然誰かを指名して考えさせたりした。また、紛争地帯に踏み入ったときのノウハウを語って聞かせてくれた。長距離移動のためにタクシーを雇うときはタイヤの減り具合をチェックしろとか、入国ビザを持たないで空港に降り立っても往復チケットを持っていればだいたい入国させてくれるとか、先を磨いて尖らせたスプーンを一個携帯していると非常事態で武器にもなるから便利だとか、そんな話を。

 僕はすぐに秋野先生のファンになったので、集中講座が開講されるのがいつも待ち遠しかった。そして、積極的に質問に行ったりしていたので、割と早くに先生に覚えてもらえて、教室外でも先生の話を聞く機会をたくさん持つことができた。先生の言動からいつもビリビリと電気ショックのような刺激を受けていたし、同じく「秋野マニア」の同級生たちと集まって酒を飲んでは、先生がこんなことを言っていた、とか話し合い、「すげー」「カッコいー」「男の生き様だ」とか言って興奮し、面白いエピソードに笑い転げた。僕らは先生の美学・行動原理・信念について知りたいと思い、その言動からヒントを得ようとした。僕はよく図書館の奥深くの書棚をさまよって先生の論文を探し、夢中で読んではまた電気ショックを受け、痺れまくっていた。

 先生はいつも世界を忙しく飛び回っている人だったが、こっちが真剣に向かっていけば、決してその真剣さを裏切ることなく、真正面から向き合ってくれた。先生は威張るということが絶対に無かった。思えば10代だった頃の僕は、猛烈に青臭く、地に足のつかないことを喋っていただろうに、先生は「教える」という態度を取らず、同じ目線で僕と対話してくれた。真剣さには常に真剣さで返してくれ、世界や人生について本気で考える男同士の熱い対話を何度も交わさせてもらった。(ところで、先生の名言の1つに、「威張るのは馬鹿でもできるのですが、馬鹿な奴には絶対に威張らせないのは天才のわざです」というのがある。)

 秋野先生から受けた刺激は、学問的なことよりも、生き方・考え方についてのほうが大きかった。先生は、熱く、鋭く、そして温かい人だった。肉体の頑強さとは対照的に笑顔は人懐っこく、そしてユーモアにも溢れていた。今でもよく覚えているのだが、オウム真理教の施設に警察の捜索が入ったとき、先頭の捜査員は籠に入れたカナリヤを手にして施設に踏み入った。それはカナリヤがガスに敏感だからなのだが、先生は「それは相手がオウム(鸚鵡)だからですか」と、真顔で微妙なジョークを言っていた。

 自分に追い風が吹いていることを確かめるため、数年に一度、わざとヤクザに絡まれてみるという話をいつかされていた。いざ殴られるというその瞬間、引くのではなく、あえて顔を前に出す、その一瞬の迫力で、一度も殴られたことがない、とか。理由は覚えてないが、ゾロアスター教の教えに共感するといつか話されていた。僕が司馬遼太郎の歴史小説を読むようになったのも先生の影響だった。司馬が描く主人公はみんな自分の意思で自分を鍛えていった人だから良い、と確かそんな説明をされていた。先生が推薦されていた『峠』はまさにそういう主人公の話で、しかも僕と同じ新潟県人なので嬉しく思ったものだ。「自分の人生を何に使うか」という言葉を先生はよく使われた。人生を使って成し遂げたいことのために何が必要かを見極め、その能力を1つ1つ修得して、そして人生の仕事を成し遂げるんだ、という人生観を話してくれた。「そうやって自分を仕上げていくんですよ」と。

 僕は大学2年生を終わってから1年休学し、単身でオセアニア・アジアの11ヶ国を歴訪してきたのだが、それを決めた理由のたぶん最大のものは秋野先生の影響だった。出発前に先生にアドバイスをもらったとき、「砂漠の一本道をバスで1日走ったら地図の上ではこのくらいとか、そういう『地球のスケール』を自分の実感として掴んでくるといいと思うよ」と言ってくれた。先生は常に学生に「世界に出ろ」「自分の目で世界を見て来い」と言い続けていて、僕が旅から帰って復学したあと、授業の時間を割いて、僕に旅の体験談を話させてくれたりした。

 先生と僕らが所属していた「国関」は、筑波大の中では異色のところで、在学中に1年間海外留学したり、休学して外国で日本語を教えてきたりとか、まっすぐ4年で卒業しない人が昔から多かったのだが、僕らの世代ではその傾向が更に強まって、1学年100人強のうち半分近くが5年計画になるような状態だった。もちろん秋野先生の影響が強くあったに違いない。先生があるとき学内の何かの会議に出席されたとき、学生の休学数を所属別に集計したデータが出てきて、もちろん「国関」が突出して休学者を多く出していたそうだ。先生はそのことを、「素晴らしい!もっとどんどん行け!このままいけば国関は天下を取れる!」と痛く喜ばれていた。

 秋野先生は文章表現への拘りが強く、「叙述で勝負してください」といつも仰っていた。自分でもそのうち小説を書きたいと話されていたそうである。僕が覚えている「秋野流文章術」の1つは、理由などを列挙するとき、3点にまとめるといいということ。2つだと少なくて弱い感じになるし、4つだとまとまり切れていない印象になるから、と。これは今でも実践している。それから、「第一は」「第二は」よりも「第一に」「第二に」と書くといいというアドバイスもあった。「第一は…」で文を始めると「…である」で終わらねばならないが、「第一に」だとそうでないから表現がより自由になる、と。

 そのうち僕は、学者への道に進みたいとの思いを徐々に強くしていった。先生にそれを話したら、「俺が本気でサボる気になれば、1年のうちに大学に来なきゃいけない日はそんなにないんだよね。あとはずっと自分の好きなことをして稼いでいられる。いい職業ですよ。」と言ってくれた。そして、学者になるのならば、英語はどうしても必要になるから、筑波大の交換留学プログラムを使って1年間留学してきたらどうか、と勧めてくれた。「非常に安上がりで1年間留学できる、こんな機会は滅多にないですよ」と。そのプログラムに参加するには、TOEFLという英語テストで550点(当時の基準)を取る必要があったのだが、それについて、「550点は大変だけどね、みっちり勉強すれば…、3ヶ月だね」とのことだった。先生の言葉通りに僕は約3ヶ月間、とにかく詰め込み式で勉強し、567点を獲得した。

 1年間の交換留学に行けることが決まり、先生にそれを話したらとても喜んでくれて、「これはとてもいい機会だから、ちょっと無理するくらいに頑張ってくるといいよ」と言ってくれた。その「ちょっと無理するくらいに」という言葉が強く印象に残り、留学先で辛いときはその言葉を思い出しながら勉強した。留学の最後では、TOEFLの点は620点まで上がり、その後の大学院進学に大いに役立った。僕が交換留学に行っている間に先生はタジキスタンに出発され、「ちょっと無理するくらいに」が先生からの最後のメッセージになってしまった。

 筑波大から外務省に移籍してタジキスタンに赴任されるとき、相当の危険地帯であることは先生は当然承知の上で、でも、「自分はこれまで学生達に海外へ出ろ出ろと言ってきたので、ここで自分が行かないわけにはいかない」と仰っていたらしい。いかにも先生らしいが、しかし、生きていて欲しかった。前に「私は死にません。今は死なない自信があります」「人間、1回しか死なないんだから。そう何度も死ぬわけじゃないんだから」と仰っていた先生が亡くなられたことが、悔しくてならない。

 先生が亡くなって1年後、僕はアメリカの大学院に進学した。人から聞かされていた通り、1学期目の授業はそれはそれは厳しいものだった。僕は先生の顔写真を印刷して寮の自室の壁に貼って、それを見ては気合を搾り出して勉強した。不思議なことに、先生の表情がいつも違って見えた。時には「もっとしっかりしろ」というような厳しい顔に見えたし、別の時には「その調子だ」と応援してくれる優しい表情にも見えた。12月、学期末最後の課題を必死の思いで終わらせたとき、フーッと息をついて、こんなときは「よく頑張ったな」と言ってくれるかなと期待して先生の写真のほうを振り返ったら、なぜかそれまで見たこともないほど厳しい表情の秋野先生がいた。それは「これで気を抜かずにガンガン走れ」と言われているように思えた。

 時は流れ、僕は希望通りに学者の職に就いた。先生が僕に与えたような電気ショックを、今度は自分の学生達に与えたいとも思うが、それよりも今は自分の研究のほうに手一杯で、学生達と人生を語り合う余裕はない。しかし、僕が先生に痺れたのは、もとはといえば先生が僕らに向き合ってくれたからではなく、危険な紛争地帯に「自分は見たいんだから行くのだ」と単身乗り込んで行く、研究者の姿、その背中に痺れたのだった。秋野先生以外にも、僕は筑波大時代に多くの先生方の研究者としての姿に憧れ、その背中に学んだのであり、自分も駆け出し研究者となった今、まずは研究者としての自分を磨き、背中で学生を痺れさせるようになりたいと思う。向き合って人生を語るのはその次のステップとして残しておこう。

 司馬遼太郎の小説『十一番目の志士』のラストシーンで、高杉晋作が死んだとき、主人公が自分が高杉から受けた影響の巨大さ、高杉によって自分の人生がどれだけ大きく変わったかを思って呆然とする場面があったと思うが、僕も今、筑波大入学以降の自分の人生がどれだけ秋野先生に動かされたかを考えると、その影響の計り知れない大きさに、なんとも信じられない思いがするし、秋野先生に出会えた幸運にただただ感謝するばかりである。

前田耕 2008.3.16

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