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大学院入学前、98年から99年ころに書いたモノをいくつか載せています。

目次
再び坂を登るべきか         (99年7月27日)
楽観も悲観もしない。        (99年4月13日)
努力の動機             (99年2月13日)
運と人間              (98年11月19日)
大人になるということ        (98年9月21日)
24歳にして知るふるさとのよさ   (98年8月24日)
リーダーの生まれない国の悲劇    (98年8月20日)


再び坂を登るべきか (99年7月27日)
 
 先日のテレビ番組に、自民党総裁選に出馬予定の山崎拓氏が出演して、自分の政策を語っていた。その中に、「坂の上の雲を目指して」云々の言葉が出てきて、ふむ?と思った。
 今春の都知事選でも、石原慎太郎氏が「もういちどみんなで坂の上の雲を目指して登ろうではないか」というようなことを演説で訴えていた。

 「坂の上の雲」とは、司馬遼太郎の小説の題名であり、明治維新後の日本が弱小後進国家から這い上がって近代化を目指していった姿を描いた作品である。日本が大きな危機に瀕している今、危機脱出を目指す文脈でこの言葉がでてくることは、まあ理解できる。再び国民が一丸となって日本を再生させようということだろう。

 しかし、この、国家目標としての「坂を登る」ということについて、異論がある。

 司馬『坂の上の雲』の題名の由来は、「あとがき」に書いてあるように、明治の日本人たちが「無我夢中で」「ただひとつの目的にむかってすす」んだことにある。その目的とは、列強に囲まれた小さな祖国をなんとか近代化して強くしてゆくことであった。「のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼって」いった日本人は、ついには日露戦争においてロシアという強国を破るに至ったのである。
 ここで重要なのは、国民みんなが同じ坂を登ったということである。共通の一つの坂だ。政治家も官僚も実業家も軍人も学者も学生も、みんな日本の近代化のために働いたし、庶民はその近代化にともなう重税と労働に耐えつづけた。司馬氏は井上ひさし氏との対談『国家・宗教・日本人』の中で、土木工学の最初の日本人教授になった古市公威氏がフランスに留学していたときの猛勉強のエピソードを紹介している。古市氏は、少し休まないと身体をこわすと言って心配する下宿のおばさんに、「ぼくが一日休むと日本は一日遅れます」と答えたという。こういう日本人が一丸となって成し遂げた近代化というのは、全く感動的な壮挙であった。

 その結果、今の日本がある。みんなで共通の「近代化」という坂を登った結果、いま、我々はめいめいが自分の好きな坂を選んで登ることができる社会に生きている。これは素晴らしいことだ。国家一丸となって一つの目標を目指した姿は美しい。しかし、その必要がなくなってひとりひとりが自分の望む生き方を選べるようになったこと、その豊かさこそが、我々が誇りにし、大事にすべきことであろう。

 マレーシアが「2020年までに先進国の仲間入りをする」という国家目標を掲げているが、それがマレーシア人の「坂」である。日本でもかつて「殖産興業・富国強兵」といわれたし、戦後でも「所得倍増」と言われた。国家がスローガンを掲げて一つの目標へ邁進するとき、その国は国民一丸となって一つの坂を登っている。少なくとも政府はそれを狙っている。
 端的に言えば、親が子供に「この子には自分よりも豊かな暮らしを」と願う国は、近代化・産業化の途上にあるのであって、「立身出世」のような願望を国民の大多数が持っている状態である。日本もたぶん60年代ころまではそうだったのではないだろうか。その段階を過ぎると、「立身出世」が若者の共通価値でなくなって、例えば大卒のフリーターが増えたりする。これが、「坂」が単数から複数になるということだ。目指すものが多様化する。それに耐えられる段階に国家が到達したこと、それが近代化・産業化の目安である。(このことは、社会の紐帯の希薄化という問題、例えばモラルの低下といった重大な問題とも関連しているが、ここではそれに立ち入らない。)
 もちろん、日本が現在の危機から脱出するためには多大な努力が必要である。しかし、経済再生にせよ教育改革にせよ、それは国民を総動員して行う種の改革ではない。国民全員「に」関わる問題ではあるが、国民全員「が」取り組まねばできない課題ではない。何よりも、「ひとりひとりが自分のしたいことを目指せる社会」の維持が前提であるべきだ。そういう社会にはめざましい高度成長は起きないかもしれないが、しかし、それでいい。司馬氏は前述の対談の中で「美しき停滞」という目標を提起しているが、大賛成だ。日本はすでに「共通の坂をみんなで無我夢中で登る時代」を過ぎたのだ。それを再び目指すのは退行であり、先人たちの努力をないがしろにする行為ですらある。



楽観も悲観もしない。  (99年4月13日)
 
 「楽観論者/悲観論者」という分け方があるが、自分はどちらでもないと思う。
 大学院受験の結果待ちの3ヶ月間、僕は楽観も悲観もせずに、ただ悠々と待っていた。「うまくいくだろう」とも「ダメだろう」とも思うことはなかった。結果待ちである以上、こっちですることはもはや無く、ただ待てばいいのであって、あれこれ思うことは無駄だと割りきっていた。
 まだ受験勉強をしていた頃も同様で、「なんとかなるさ」とも思わなかったし、「ダメだったらどうしよう」などとも思わなかった。そんなことを考えるヒマがあったら勉強しようと思っていた。その方が目的に近づく。

 このことは前2回に書いたことと関連しているが、僕の性格はこのように単純である。悲観も楽観も時間と労力の無駄だと考えているのだ。
 何かに挑戦する場合、それが成功するかどうかは、「その対象の難易度」を「自分の能力」が越えられるかどうかという単純な図式であらわされるものであり、ここでいう「自分の能力」とは大雑把にいえば「天分+努力+運」である。何かに取り組むとき(例えば大学院受験でもいいし、海外単独旅行でもいい)、それがどのくらい難しいか、自分にどれだけの能力があるか、その2つを冷徹に比較してみて、簡単にできそうだったらそのままやるし、今のままでは無理そうであれば、努力をして自分の能力を高める。この単純な過程に、楽観論や悲観論の入りこむ余地はない、と僕は考えている。
 困難に突き当たったとき、悲観論者は、「無理そうだからやめよう」とか「ダメだったらどうしよう」とか思うかもしれない。しかし、成し遂げたいのならば取り組むしかないのだ。「天分+努力+運」のうちで、自分が直接に左右できる部分は努力しかない。ならばそこをギリギリまで突き詰めることのみが成功に近づく方法なのであって、あれこれ悩むことは何の前進にもならない。
 また、楽観論者は「なんとかなるさ」と言う。これは、対象の難易度と自分の能力を比べてみることをしない人のセリフである。これを言う人は努力をしない。その結果、たまたま成功するかもしれないし、失敗するかもしれない。いずれにせよ、本当に成功したいと思っている人はこの態度をとるはずがない。

 結局、前回と同じ結論になってしまうのだが、うまくいきそうか否かなどに大した意味はないのだ。成功させたいことに対して自分の全力を注ぐ、それだけである。



努力の動機  (99年2月13日)
 
 「為せば成る」「やってできないことはない」「努力は必ず報われる」などの言葉はすべてウソだと思う。まあ、悩んでいる中学生を元気づけるときに言うのならいいが、少なくとも大人はそんな甘い考え方をすべきでない。
 世の中の現実・事実を冷厳に見つめれば、無理なことがあるのも、報われない努力があることも明白だろう。例えば、すべての野球少年は努力次第でプロ選手になれるだろうか?そんなことはない。また、同じ目標を目指す2人がいて、1人はたいした努力もなしに達成するが、もう1人はどんなに頑張っても無理、ということもある。現実社会にはそういう厳しさがある。
 僕はここで、「努力は無駄」などと言っているわけでは決してない。「努力するときの姿勢」について論じているのである。「努力は必ず報われる」というのは、自分を発奮させるために便利な言葉ではあるが、それは自分に都合のいいように現実をねじ曲げる態度であり、それによってやる気をだすというのは弱い生き方だ。「報われないかもしれない。だけどやる。」という態度での努力こそがホンモノであり、大人ならばそうでなければならない。
 言い方を変えれば、「必ず報われる」と言うことは、「報われるはずだから(=成功するはずだから)」という根拠のない楽観を自分に言い聞かせることであり、自分に甘い。それでも、うまく成功すれば結果オーライといえるかもしれないが、少なくとも僕にとってそれは美しくない。僕に言わせれば、結果の見通し(成功しそうか否か)などは人が何かに挑戦する際には毛ほどの重みもなく、「成し遂げたい/成功したい」という意思こそが努力の動機でありうるのだ。「成功しそうだからやる」「成功するはずだからやる」などというのは美しくない。



運と人間  (98年11月19日)
 
 中学生のころ麻雀を覚えて、父と2人の兄とでやったことがあった。覚えたての僕が麻雀というゲームについて持った感想は、「結局こんなの"運"で決まるゲームじゃないか」ということだった。その感想に対して父は、「運はみな同じなんだから」と言った。当時の僕は、「そんなこといったって、運のいい人と悪い人はいるし、運のいい時と悪い時があるじゃないか」と思っていたものだ。
 あれから10年ほどたち、僕はもう麻雀をしなくなったが、今思うとあのときの父の言葉「運はみな同じ」というのは、「各プレーヤーの運(運の良い悪い)が同じ」という意味ではなく、「どのプレーヤーも運に左右されるという点では同じ」ということだったのではないかと思う。
 麻雀のゲームの過程で、運に左右されること(ツモの善し悪し)は確かに大きい。しかし、自分の戦術次第で変わる部分も大きいわけである。仮に同じだけの運を持つ2人がいたとしても、打ち方次第で勝ち負けは大きく変わってくる。つまり、「運の領域」と「人間の領域」があるのだ。(麻雀は、サイコロやポーカーに比べて「人間の領域」の比率が非常に大きい。逆に、将棋や碁には「運の領域」は無い。)「運はみな同じ」ということの意味は、「運の領域」があるのはどのプレーヤーにも共通で避けられないことなのだから、勝つためには「人間の領域」で努力するしかないのだ、ということだったのだろう。もし、運が50%・人間が50%のゲームがあった場合、人間の領域で1%の力しか出せない人には、最高51・最低1の結果しか出ないが、人間にできることを最大限に出す人は最高100・最低50の結果を出せる。
 つまり、自分の力ではどうにもならないことをあれこれ考えても仕方がないから、自分の努力次第で左右できる範囲をギリギリまでやる、という姿勢が大切なのだ。例えば試験の前に、「当日どんな問題がでるかわからないんだから」と言って準備しないでいてはダメで、それでもできる限りの努力を尽くすことが必要だ。仮に、運に90%左右されるのだとしても、本当にその対象を重要だと思っているなら、10%に対してでも真剣になるだろう。「人事を尽くして天命を待つ」というのはそういう考え方だ。
 旅行記のページに、「なんとかなる」という言葉が嫌いだ、と書いたが、それはこのことに関連している。



大人になるということ (98年9月21日)
 
 「大人になる」とはどういうことか、と考えることがある。自分も24歳の「いい年」になったわけだが、年齢的なことでなく、精神的、というか、自分の内部が、大人になってどう変わったのか。

 一つ思うことは、子供のころに分からなかったモノの価値が今わかるようになったということ。ほうれん草のおひたしが実は旨いということに気づいたのは高校生のころだったと思うが、あのころから大人になりはじめたような気がする。「民謡なんて年寄りの聴くものだ」と子供のころは思っていたが(多くの子供が思うことだろう)、そういう「子供的な決めつけ」を取り払って、素直に聴いてみると、実は感動したりする。「年寄りの観る退屈なもの」と決めつけていた相撲も、実は面白い。
 子供のころは、感受性も成長途上であるから、民謡や相撲やほうれん草の価値が分からなかったのだろうし、「つまんないもの」という一方的な決めつけ(しかもこの決めつけは単純に他の子供たちからの影響だったりする)によって自分の視界から排除していたのだろう。
 だから今、子供のころの判断を疑って、昔つまんなかったものを改めて鑑賞してみようとしている。そのように、子供のころにつくった枠から自由になるということ、それが、大人になったということかと思う。
 そんなわけで試してみるうち、ほうじ茶が旨いということが最近わかった。緑茶はやっぱりダメだったが。あと、昔は好きだったヨウカンが、今は嫌いになった。
 中学生のときの修学旅行で、「昔の寺なんかみてもつまんねぇ」などとバカなことを言ってたが、あの奈良の寺院をもう一度見に行きたい。

 もう一つ、子供のころと変わったことがある。
 例えば子供のころ、本を読んでいて知らない言葉や用法がでてきたとき、無条件に「こういう言葉があるんだな」と思ったものである。自分は子供で、知らないことがたくさんあって、本というのは、「ちゃんとしたもの」であるから、自分は一方的に学ぶ側だ、という姿勢であった。本やテレビなどは、「大人の世界」のものであり、学校の先生や両親と同じ次元のものとして、自分の上の方にあった。
 この年になってみると、くだらない本やテレビがいくらでもあることが分かるし、本を読んでいて、「この著者は文章がヘタだな」「この部分は言葉の使い方がおかしいな」と思うことがある。テレビでしゃべってる人に対して、「この人の話は筋道が通ってないな」と思うこともある。いずれも、子供のころには持つことのなかった感想である。つまり、自分を「大人の世界」の中に置いてものを考えるようになったのだ。
 思えば、子供のころでも、テレビに子供が出て作文や絵を発表していると、自分と対等の相手として見ていたような気がする。つまり、子供のころは、無意識のうちに自分を「子供の世界の人」として置いていたのだ。
 その二つの世界の境界をいつの間に渡ってきたのか、よく分からない。車の窓から空缶を投げ捨てる人を見て、「悪い大人がいるなぁ」と思っていたのが、今では「悪いヤツがいるなぁ」になった。明らかに自分は二つの世界の境を越えてきたのだが、さて、いつのことか。たぶん、「いつのまにか」だったのだろう。
 いつのまにか大人の世界に来ていたが、考えてみると、この世界はけっこうキビシイ。昔、知らないことは、「子供だからまだ知らない」と言えた。今、知らないことは本当に知らないのだ。そのあたりの意識を切り替えなければならないと気づいたら、背筋が伸びる気がした。これが、大人になったということかもしれない。



24歳にして知るふるさとのよさ (98年8月24日)
 
 大学の友達2人が家に遊びに来て2泊していった。もともとは8月はじめころに来て海でキャンプする予定だったのだが、事情で8月下旬になったため、海にはクラゲがでてしまって海水浴には適さない。さてどこに案内して何をしようか、と悩んでいた。

 しかし、意外にも行くところはたくさんあった。

 僕が高校3年間通った村上市(車で20分)へ連れて行って、昔の城跡がある小さな山に登ったら、まわりの自然豊かな風景が一望でき、ほぉなるほど、と思った。自分が育った場所だから当然のように思っていたが、客観的に見たら、結構めずらしいほどに自然がそろっている。

 まず、海にも山にも近い。新潟平野の北端にあるので、平野が狭くて海から山までの距離が短いのである。中学生のころ、夏の暑い日には友達と自転車で海へ行ったものだし、都会から離れているので海はきれいである。山も、車で20分のところにスキー場が2ヶ所もある。

 3人で海へ行った。車で北へ30分も走ると、入り組んだ海岸線と美しい夕陽で有名な「笹川流れ」がある。子供のころから何度も訪れたところであるが、改めて見ると確かに綺麗なところだ。浜辺で遊んで、新鮮な海鮮料理を食べ、次は山へ向かった。車で登ってゆく川沿いの山道は、飽きるほど見慣れたところであるが、清らかな渓流は確かに素晴らしい。平野育ちの2人には特に珍しかったようで、とても喜んでいた。誰が決めたのかは知らないが、この川(荒川)は日本で四万十川の次にきれいな川だそうだ。

 人里離れた山道をどんどん登ってゆき、飯豊山麓の「泡の湯温泉」(山形県小国町)という秘湯に入った。ここまでも僕の家から車で一時間かからない。しかも、こんな奥まで来なくても、温泉は家から20分以内に6ヶ所もある。

 次に連れて行ったのは、荒川の支流の大石川で、僕が6歳まで育ったところである。水が澄んでいるし、上流で流れが速いので、魚取りにも泳ぐにも遊んで楽しいところだ。僕にしてみれば川で泳ぐというのはごく当たり前のことであるが、考えてみれば、今の日本でこんなところは貴重なのかもしれない。「プールと違って塩素臭くないし、海と違って塩辛くないので、新鮮な感じがする」との感想を聞き、そういえばそうか、と妙に納得した。

 2人は、大いに気に入った地酒を2升も買い込んで、喜んで帰っていった。この週末は僕にとっても大きな収穫であった。今まで気づかなかったふるさとのよさを再発見できたからだ。

 海あり山あり川ありのこんな場所で18歳まで過ごせたことは、なにものにも代え難い財産だと思う。高校のころは、こんな田舎は嫌だ、早く都会に行きたい、といつも思っていたものであるが、5年間離れてから帰ってきて、24歳になって、やっと分かった。こんな素晴らしい環境に囲まれたところは滅多にない。人間にとって本当に大切なものが、ここにはある。

 地方の若者が都会に憧れる気持ちはよく分かる。僕自身も昔はそうだった。しかし、流通の高速化と通信の高度化のおかげで、地方に住むことの不便さはかなり小さくなってきている。コンビニには全国どこでも同じものが置かれているし、本もいまや電話一本で買える。特に、インターネットの普及は、住む場所によるハンデを劇的に解消した。今では、東京にいるから情報が入ってくるというのではなく、情報を得ようとする人に情報は入ってくるのだ。東京一極集中の是正は、このような技術の進歩によってはじめて具体性を帯びてくる。

 技術の向上と僕自身の成長によって、僕はふるさとが好きになった。電車は一時間に一本しか来ないし、デパートも映画館もないが、そんなことは人間の生活にとっての本質では決してない。最新流行の洋服や遊びからは遅れるだろうが、幸いにも僕はそんなことに全く関心がない。

 空気がきれいで、水も澄み、旨い米と新鮮な魚があり、海と山と川がある。将来、自分の子供はこういうところで育てたいと思っている。



リーダーの生まれない国の悲劇 (98年8月20日)
 
 小渕首相の顔をテレビで見るたびに、何ともいえない違和感を覚える。失礼な物言いではあるが、小渕さんの顔は明らかに宰相の顔ではない。案の定、小渕政権が発足してから円も株も下がり続けである。我が国がこれほど深刻な危機のなかにあるときに、どうしてこの程度のリーダーしか出てこないのだろうか。小渕さんだけの話しではない。自民党にも野党にも、これといった顔が見当たらない。いったい、これほどの経済発展をなしとげ、世界の賞賛を浴び続けてきた国に、なぜ有能なリーダーが生まれ出てこないのだろうか。イギリスの危機にチャーチルが現れ、フランスの危機にドゴールが現れたことを思うと、日本人が戦後に成し遂げてきたことは何だったのだろうかという悲しい思いに包まれてしまう。

 我が国が重大な危機のさなかにあることに異論はないだろう。英誌『エコノミスト』は今年3月21日号で、「日本は、1860年代と1940年代のように、しばしば危機の中から自らを改革して立ち上がってきた。1990年代はこのリストに加われるのだろうか」と書いた。現在の日本は、明治維新の1860年代と、敗戦の1940年代に比せられる困難にあるのだ。

 日垣隆氏が『エコノミスト』誌(毎日新聞社)の巻頭コラムで書いていたことだと記憶しているが、「2−2−6の法則」というものがある。どんな社会や集団においても、上位2割と下位2割とその中間の6割があり、上と下のどちらが中間を引っ張るかによってその集団の動向が決まるという見方である。この2割6割2割は相対的なものであるから、例えば東大医学部の中にも2・6・2はあるし、小学一年生の学級にもある。それぞれの集団の中で、上位2割が全体を引っ張り上げる構造・雰囲気にあるときにその集団は伸びるし、下位2割が足を引っ張っているときにその集団は落ちてゆく。

 これを手掛りに考えると、今の日本を覆う暗雲、社会全体を包んでいる暗い雰囲気はつまり、下が足を引っ張っているからだと合点がいく。住専問題を生み、不良債権を生み、さらには金融不安を招いたのは、バブルに狂奔した愚か者たちである。アメリカと対比して考えてみよう。経済の不振に悩んでいたアメリカでは、シリコンバレーを中心に若く優秀な起業家たちが続々と現れ、ハイテク産業の急成長から、現在の経済の絶好調につながっている。これはエリートが全体を引き上げた社会の好例だろう。翻って日本では、暗いニュースばかりが目につき、それが社会を暗くしている。日本にも上位2割はいるのだが、見えてこない。例えば、少年による凶悪犯罪が相次いで起き、少女売春と高校生の薬物汚染が注目され、今の子供たちはどうなってしまったのだ、今後の日本はどうなってしまうのだ、と大人は嘆く。もちろんそんな子供たちだけであるはずがなく、高校生にも優秀なエリートはいるはずなのだが、全く目立ってこない。だいいち、少年の犯罪や薬物汚染にかけてはアメリカの方がはるかに深刻なのであるが、アメリカでは優秀な若者も目立っているのである。なぜ日本では。

 思うに、過去に閉塞・停滞を突破してきた国では、優秀な指導者たちがその道筋をつけてきたのではないだろうか。先にチャーチルとドゴールの名前を出したが、幕末の日本においても、新しい社会を構想した志士たちがいた。今の日本ではなぜそれが出てこないのだろうか。日本人が1億2千万人いるなら、100万人に1人のエリートが120人もいるはずである。それが表舞台に出てきて活躍するような国を造らねばならない。

 誤解のないように付け加えるが、下層の国民はどうなってもいいと言っているのではない。「2・6・2」というのは相対的な分け方であるから、どんなに国民全体の教育水準・道徳水準が上がっても常に下位2割は存在するのである。問題は、社会の構造として、上位と下位のどちらが目立ち、どちらが全体に影響を与えているか、ということである。「出る杭は打たれる」社会というのは上位の活躍が妨げられている社会である。今の日本はそれかもしれない。例えば、帰国子女の小中学生が、いじめをおそれてわざと英語のできないふりをするという。そんな社会は間違っているし、没落するに決まっている。

 教育改革が必要だ。多数の平均的普通人を生むことを目指してきたこれまでの教育を改め、それぞれの個性を伸ばして多様な個性的人材を生むようにしなければならない。それと同時に、日本社会自体が、横並び・画一主義を捨て、出る杭を打たずに、どんどん杭が出てくるような社会に変わっていかなければならない。戦後の復興と高度成長は横並び主義でできた。しかし、この、先の見えない時代(目標になる先行者がいない時代)には、横並び主義では対応できないのだ。未曾有の経済的豊かさに慣れ浸ってしまった日本人が自らを変革できるかどうか難しい気もするが、それ以外に21世紀に日本が生き残る道はないと考える。


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