- 2008−7−4(金)の夕方
旅の3日目は、サンタフェ近郊を観光。まず行ったのは、Bandelier National Monument。ここには美しい渓谷の中にずっと昔の先住民たちの住居跡が残っている。長時間歩けばもっと多くを見られるらしいが、僕らは乳児連れということもあり、最も手軽に見て回れる数箇所だけを見学した。

このように岩壁に穴があいていて、そこにずっと昔インディアンの人々が住んでいたとのこと。

中に入れる穴もいくつかある。
非常に興味深かった。また、この遺跡は渓谷の底の部分にあり、景色も素晴らしく、緑も多いので森林浴のような楽しみもできた。
Bandelier National Monumentに大満足した我々は、次にサンタフェの北方にあるTaosという小さな街を目指した。そこには、世界遺産に指定されているTaos Puebloがある。それは独特の建築法で作られた先住民の住居で、なんとそこに今でもその子孫の人々が住んで生活しているのである。

このような、四角い部屋を次々に上へ横へと繋ぎ合わせていったような構造をしている。家族が増えるたびに増築していった結果なのだそうだ。一番高いところは5階だとのこと。
この村には今でも150人程度のインディアンの人々が住んでいて、電気も水道も通っていない。でも多くの家族は車を持っていて、車のバッテリーを室内に引いてテレビを見たりしているとのこと。さすがに民家の中までは見せてもらえないけど、外から見るだけでも非常に興味深かった。

村の中に小川が流れているのだが、1人の男が馬に乗ったまま平然と川をザブザブ渡っていく姿を目撃して、痺れた。馬に乗って出かけるというのが彼らにはごく普通の生活の姿なのだった。
そのあとも馬に乗った人をみかけた。村を出るとき、駐車場整理係の人(この人も先住民)とちょっと話すことができたのだが、彼に「馬がたくさんいるね」と言ったら、「今日は少ないんだよ」と言われた。ちょうどその日は、村の多くの男達が馬に乗ってウサギ狩りに出かけていたそうだ。凄い。そういう生活をしている人が同じアメリカ国内にいるとは。その駐車場整理係の人によると、やはり若者の中には村を出て都会に行ってしまう人もいるが、彼は村の生活が大好きで、文明社会の便利さなどは無いけれども、「これが人間の本来の姿だと思うよ」と誇らしげに語っていた。
- 2008−7−1(火)の夜
旅行2日目は、アマリロを出発して更に北西に走り、ニューメキシコ州に入って、州都のサンタフェ市まで行った。

テキサス州の最北西端の地域には初めて行ったのだが、なんともまっ平らで、猛烈にだだっ広い場所だった。州境を越える前の最後の街の名前は"Texline"だった。当然ながら、州境にあることに由来する名前だそうだ。
ニューメキシコ州に入ってしばらく行くと、それまで平坦だった土地にだんだん山が見えるようになっていった。でも降雨が少ないのか、緑は少ない。そして、この日の目的地の1つ、Capulin Volcano National Monumentに到着。

左右対称の、とても綺麗な形をした死火山で、山頂近くまで車で登れるようになっている。上の写真で、山の中腹あたりに斜めに線が走っているのがみえるが、それが道路である。山の周囲をグルッと登っていくことになる。山頂の標高は2500mほどもあるが、もともとが高原に位置しているので、麓と山頂との高低差は300m程度である。
山頂近くの駐車場に着いて車を降りると、噴火口の跡に下りていく道と、噴火口の周りを一周する道とがあった。僕らは一周するコースを歩いた。心地よい風が吹き、景色も良かった。
その後、州都のサンタフェに向かった。途中で雷雨になったが、夕方頃、無事に到着。サンタフェは標高2134mの高地に位置していて、全米50州の州都のうちでもっとも高いところにある(ちなみに、日本の都道府県庁所在地の中で最も高い長野市でも400m程度である。日本のJR線の最高地点が1375mであるから、サンタフェの標高は相当のものといえるだろう)。
この地域には、メキシコを支配したスペイン人が16世紀から入ってきていた。メイフラワー号の到着よりも、ジェームズタウン植民地よりも、更に早くからここには都市が作られていたのである。道路の名前もほとんどがスペイン語だったし、都心部の道路が格子状でなく放射状になっているのもスペイン式なんだとか。
- 2008−6−30(月)の夜
旅行第1日目は昼過ぎに家を出発。日本から遊びに来てくれていた妻の友達(以下「N子さん」と表記)と、僕と妻と息子の4人で、レンタカーのミニバンに乗ってひたすら北西に走った。
同じ道を一昨年の11月にも走ったのだが、とにかく広大な場所で、地平線がずっと広がっていた。西へ行くにつれてだんだん緑が少なくなっていった。

途中、ラクダ牧場が道路脇にあってビックリ。ここで育てたラクダはどうなるんだろう?
その日は夕方遅くにアマリロに到着。
- 2008−6−27(金)の夜
お久しぶりです。一週間ほど旅に出ていました。数回に分けて旅行記を掲載しようと思います。
- 2008−6−10(火)の夜
夏休みに入り、基本的に家に居ながら仕事する日々が続いている。自宅のパソコンの遅さに悩まされながらも、ここ数日は2つの研究の間を行ったり来たりしながら、楽しく仕事に没頭している。関連が全くないと思っていた2つの研究の間に意外な接点を見つけたりするのはとても面白い経験である。
- 2008−6−1(日)の夕方
木曜日に期末テストをやって、それから採点と最終成績の報告の作業をやって、ようやく終了。これで就職3年度目の業務が完了した。これから秋学期が始まる8月下旬までの間は思いっきり研究に没頭する予定である。かなり野心的な計画を立てたのだが、なんとかそのペースを守って論文の執筆と改定の作業を進めていきたい。
- 2008−5−27(火)の朝
昨日はメモリアル・デイの休日で、金〜月と4連休だった。今日と明日と2回授業をやったら、あとは木曜日に期末テストをやって終了になる。今日は課題の締め切りなので、今日の午後からそれの採点に取りかかって、木曜朝までの終わらせないといけない。
- 2008−5−21(水)の夜
もう授業の3分の2くらいが終了。早朝から3〜4時間も授業をやってると、やはり疲れる。たまに座って講義したくなることもあるけど、今のところはずっと立ちっぱなしで喋り続けている。学生達の顔にも疲れが見えるようになったけど、座って聞いてる彼らよりも、立って喋ってる僕のほうが疲労するに違いない。あと約一週間でこの講座も終わるので、それを楽しみになんとか頑張ろう。
- 2008−5−14(水)の夜
短期集中講座は今日で3日目が終了。すでに3割の内容を消化したかと思うと、そのペースに驚くばかりだ。去年もこの3週間講座を教えたけど、普段の学期よりも実はけっこうやりやすい。普段だと1コマは50分や80分で、区切りのよくないところでストップしなければならなかったり、そうすると次回の冒頭にちょっと復習をしてから続けねばならなかったりするけど、この集中型講座では休憩を取るタイミングを自由に決められるから、区切りのいいところでいつも切ることができる。さらに、学生の出席率が良い。学生たちも、1日休んだらどれだけ遅れるか分かってるんだろう。来週の月曜日には早くも中間テストをやる。
- 2008−5−11(日)の夜
期末試験の採点と成績の報告を終えて、今学期の業務は終了。でも、いつものように文句と哀願のメールは届いているので、それらを処理したら本当に終わりと言える。
で、明日からさっそく夏期講座が始まる。僕はいつもと同じ「比較政治学」を明日から3週間集中で教えることになっている。3週間と言っても、金〜日は休みだし、最後の日は期末試験で、途中に祝日も1日入るから、授業をするのは僅か10日である。その10日間で、いつもは一学期かけて教える内容を全てこなすのだから、かなりの詰め込み式の講義になる。
さて、今日は母の日。母親一年目の妻に日頃からの感謝を示すために、今日は僕が夕飯を作ることにした。ネット上でいろいろ検索して旨そうなモノを探してメニューを決定。妻も僕も食べたことのない料理を作った。僕が作るといっても、食材や調味料の場所は妻に訊かないと分からないので、結局何度も妻を台所に呼ぶことになってしまった。
けっこう時間がかかって、やっと完成。妻は「美味しい」を連発してとても喜んでくれた。僕も日本酒で晩酌。たまの気分転換としてなら、料理も割と楽しいものかもしれないと思った。
- 2008−5−7(水)の夜
昨日、両方のクラスで期末試験をやって、あとは採点して成績を出せば今学期の業務は終了。大学院の統計のクラスは、採点を途中までやった感じでは、相当に上から下までの差が大きそう。誰も落第させる必要がなければいいけど。
昨日はインディアナ・ノースカロライナ両州で予備選があり、僕は開票速報の途中からずっとテレビに釘付けだった。インディアナ州で開票率80%を過ぎてからの展開は非常にドラマチックだった。日本のメディアがどのように報道しているかは分からないが、こちらではもうオバマ氏の勝利はほぼ確定との見方が広がっている。テレビのコメンテーターが「誰が民主党候補になるか、これで分かりましたね」と言ったり、ヒラリー陣営の主要幹部がヒラリー本人に「もう終わった」と告げたとか。
ヒラリー氏の撤退はもう時間の問題であるが、その撤退のタイミングはいつになるだろうか。僕はまだけっこう長引くのではないかと思う。少なくとも今月中は。というのは、どうせ負けるのであればあとは失うものはないので。これからもしかしたらオバマに巨大スキャンダルが降りかかるかもしれない。例えば隠し子がいたとか、実はモスクで礼拝をしていたとか、そんな話が出てきたら一発でアウトであろうから、ヒラリー側はその可能性にかけてなるべく撤退時期を引き伸ばそうとするかもしれない。
早期の撤退があるとすれば、選挙資金の枯渇か、または民主党の大物(エドワーズ・ゴア・カーター・ディーン・ペロシ等)が揃って出てきて引導を渡すか、そのあたりだろうか。
次の注目は、マケイン・オバマ両候補の副大統領候補選びである。これもまた非常に面白い。
- 2008−5−2(金)の朝
学期末。今週で通常の講義は終わり、来週が期末試験週間になる。今学期もまずまずうまく終わりそうだ。今学期はこれまでにやった授業を繰り返すだけだったので、授業の準備の面では相当に楽になったけど、それでもやはり、採点とか内容の修正とか、それなりに時間はかかるものだった。でも、大学院の統計のクラスは、今回やってかなり内容が固まったので、次回(来年度からは秋学期開講になる)からはグンと仕事量が減りそう。
- 2008−4−17(木)の夜
「続く」と予告しつつ一週間も開いてしまった。
アトランタでの学会終了後、レンタカーを借りてテネシー州のチャタヌーガに観光旅行に行った。グレンミラー・オーケストラの有名な曲に「チャタヌーガ・チューチュー」というのがあるが、その舞台の街。アトランタからは2時間弱の距離。アパラチア山脈の南端あたりにあり、街のすぐそばに急に山がニョキリとそびえているような地形で、その山を登る短い鉄道は世界の旅客鉄道の中で最も急勾配を登る鉄道なんだとか。たしか最大斜度70度以上だったか。乗ってみて非常に面白かったし、山頂からの眺めもよかった。それから、鍾乳洞の中に大きな滝がある場所もあり、そこもなかなかよかった。
また、歴史の教科書に必ず出てくるTVA(テネシー川流域開発公社=ルーズベルト大統領が世界恐慌の際に行った大規模開発プロジェクトの1つ)の発電施設を見学に行った。観光客向けの案内所には、月曜日だったので他に誰も客はいなくて、案内役の老人(TVAの退職者だそうだ)が喜んで僕につきっきりでいろいろ説明してくれた。
チャタヌーガはそんなに有名ではないけど、見所がいろいろあって週末の小旅行程度に最適な小観光都市だと思った。
- 2008−4−9(水)の夜
(続き)
アメリカの都市部で道を歩いていると知らない人に「1ドルくれないか」とか話しかけられることは全然普通にあるわけだが、今回アトランタでは、地下鉄に乗っていたら向かいに座っていた中年の黒人女性にそれを言われた。これは初めての経験。通行人の場合は、それを断って歩いていけばもうその人は視界に入らないし、お互い気まずい思いもしないですむけど、地下鉄で向かいに座ってる人の場合はそうはいかないので、何か変な感じだった。
同じ地下鉄の車内でのこと。別の黒人中年女性が、駅で降りていくときに、車内のほうを振り向いて、大きな声で乗客全員に対して「みんなー!神の御加護と共に、素晴らしい一日を過ごしてねー!」と言った。ありがとうとか返事をしたのは僕を含めてほんの数人だったけど。

有名な南部料理のレストランに行って、南部の伝統的な食べ物を食べた。カーター元大統領もお気に入りだという、Mary Mac's Tea Roomという店。右にある豆料理はHoppin' Johnというのだが、全然旨くなかった。一応全部食べたけど。野菜料理は、Turnip Greensというカブの葉を煮たようなもので、旨くも不味くもなかった。しかし、その下に写っているナマズ料理は絶品!前にテキサスで食べたナマズのフライは大したことなかったが、これは焼きナマズで、素晴らしい味だった。
その店は、有名人や政治家も多く訪れるところで、たくさん写真が飾ってあったが、
Lester Maddox(昨日の項参照)の85歳の誕生パーティーもここが会場だったそうで、その写真も壁に掛けられていた。

(まだ続く)
- 2008−4−8(火)の夜
アトランタはキング牧師の出身地だが、たまたま僕がアトランタに到着した日は彼が暗殺されてからちょうど40年の記念日だった。初めて訪れたアトランタは、とても黒人の多い街という印象をまず持った(人口の6割ほどだそうだが、それよりも多く感じた)。空港・鉄道・ホテル・観光地などで働いている人にも、道路を歩いている人にも、とにかく黒人が多い。ここまで黒人が多い街に来たのは初めてじゃないかと思った(デトロイトの方が統計的には黒人率は高いのだが、デトロイトはどこへ行くにも車で移動する街なので、あまり人を見るということがない。また、ニューオーリンズもアトランタより黒人率が高いが、観光客があまりにも多いためか、そんなふうには感じなかった)。キング牧師の件もあって、黒人のこと・人種のことについていろいろ考えることの多い旅になった。

アトランタでぜひ行ってみたかったのがこの場所。Lester Maddoxという人が昔やっていたレストランがあった建物で、アメリカの政治史・黒人の歴史を語る上でたまに出てくる名前と場所である。彼は昔、白人客のみを対象にしたレストラン「Pickrick」をここで開いていた。黒人差別が激しかった時代には、黒人立入禁止のレストランは南部には普通に存在していたわけだが、1964年の公民権法成立によって、レストランが人種によって客を制限することが禁止になった。その公民権法が成立してすぐ、3人の黒人大学生が、「もう入ってもいいはずだ」と考えてこのレストランに入ろうとしたら、経営者のMaddoxと数人の客が一緒になって銃や棒を持ち出してきて学生達を追い払ったという。そのことは全国ニュースになって、Maddoxは一躍有名人になった。彼は更に、そのときに使った棒を店のシンボルとして飾ったり、土産物として売り出して希望者にサインしたりしていたというから、今の感覚からは信じられない話である。でも、彼の元にはアメリカ各地から激励や賞賛の手紙が殺到したらしい。
その後、裁判所の命令で黒人客を受け入れねばならなくなったとき、Maddoxは「黒人を入れるくらいなら閉店する」と言って本当に店をたたんでしまった。驚きはそれからである。Maddoxは何と、2年後にジョージア州知事に当選してしまったのである。キング牧師は「ジョージア人であることを恥ずかしく思う」とコメントしたそうだ。
そのレストランのあった建物はその後ジョージア工科大学が買い取って、大学の就職課か何かの業務に使われていたそうで、建物の前側は大学の建物っぽく作り変えられていたが、側面と後は当時のままの姿らしかった。今では大学の倉庫として使われているようで、入り口からすぐのところにトレーニング器具が適当に並べて置かれているのが見えた。
周りの建物と比べると相当に古臭い感じで、しかし歴史的経緯についての表示などは一切なく、玄関前には落ち葉が堆く積もっていて、忘れ去られたような建物だった。
(続く)
- 2008−4−7(月)の夜
学会参加のために3泊4日の出張に行ってきた。観光も含めていろいろ実り多い旅だった。詳しくはまた後日。明日の授業に備えて今夜はもう寝ないと…。
- 2008−4−2(水)の早朝
あと2日で学会参加のためにアトランタに出発するのだけど、それまでに終わらせねばならないことが山積していて、ここ数日はもがくような日々を過ごしている。でも、昨日の授業を乗り切ったので、なんとか峠は越えたというところだろうか。
大学院の統計のクラスは、昨日の授業からいよいよ回帰分析に入った。中間試験前にやっていた基礎的なトピックに比べてより実践的で、学生達も他のクラスで実際に回帰分析を使った本や論文を読んでるので、その重要さを彼らに説明するのも簡単だし、彼らも興味を持って講義を聴いているようだった。
で、去年教えたときよりもうまく説明できた気がする。去年は内容が時間内に終わり切らずに次週に一部持ち越しになったけど、今回はそれもなかったし。
それとは別に、中間試験の成績が特に悪かった数人を研究室に個別に呼び出して、今後どう勉強すればいいのかを話し合った。特に政治哲学専攻の学生については、必修でこのクラスを取らなければいけないことが可哀相なくらいなのだが、でも、必修であることは事実だし、それを知ってて入学してきたんだから、やらせるしかない。こっちでできるサポートは何でもするから、あとは彼らの努力に期待するのみである。
- 2008−3−28(金)の深夜
NCAAバスケの三回戦で、MSUはメンフィス大学に完敗。前半終了時に20-50という信じられない大差をつけられ、後半は頑張ったがさすがにそれだけの差をひっくりかえすことはできなかった。浮き沈みの激しかった2007-08シーズンはこれで終了し、NeitzelとNaymickの2人は引退となる。来年のスタメンはSuton,Gray,Morgan,Allen,Lucasかな?
- 2008−3−26(水)の朝
長いようで短かった春休みも終わってしまい、今週からまた授業再開。昨日は大学院の統計のクラスで中間テスト。去年は問題数が多すぎたようだったので、3割も減らしたのだけど、それでも一番長い人は3時間もかかっていた。次はもっと減らすべきだろうか?これから採点するのだけど、非常にドキドキする。必修のクラスなので、これをパスしない限り学生は卒業できないのである。
- 2008−3−22(土)の深夜
NCAAバスケ2回戦、我らがMSUスパルタンズは大接戦の末にピッツバーグ大学パンサーズを下し、2005年以来となる3回戦(Sweet Sixteen)進出を決めた。
手に汗握る好ゲームで、残り3分の時点で僅か3点のリード。しかし、そこから8点連取し、試合を決めた。最終的には65-54。4年生のNeitzel・1年生のLucasの2人のガードがそれぞれ21点・19点を取り、特に最後の25点のうち21点をその2人が叩き出すという活躍でチームを引っ張ってくれた。痛快極まりない大勝利だ。
今年で11年連続全国トーナメント出場しているMSUは、そのうち7年で最低でも3回戦進出という好成績を収め続けている。11年を上回る連続出場記録を続けている大学は、アリゾナ大(24年)、カンザス大(19年)、ケンタッキー大(17年)、デューク大(13年)の4校しかなく、そのうちアリゾナ・ケンタッキー・デュークは今年は既に1・2回戦で敗退している。
- 2008−3−20(木)の夜
大学バスケの全国トーナメントが開幕し、母校のMSUは順当に一回戦の相手テンプル大学を下して明後日の二回戦に駒を進めた。次の相手はピッツバーグ大学。
さっきメールが通知が来たのだが、8月末にボストンで開かれるアメリカ政治学会で発表できることになった。この学会はなかなか倍率が高くて、プロポーザルを送っても採用されないことがこれまで多かったので、これは純粋に嬉しい。久しぶりのボストンだー!
学会といえば、再来週はアトランタに行って、アジア研究学会で発表してくる。アトランタは全く初めてなので、これも楽しみ。
- 2008−3−18(火)の朝
チベットでの暴動のニュースを見て毎日悲しんでいる。僕はチベット自体には行ったことはないが、チベットの周辺でチベット人が住む地域をたくさん訪れたので、チベットには思い入れが深いのである。ダライラマの亡命政府があるインド北部のダラムサラにも行ったし、仏教最高の聖地であるインドのブッダガヤでは、巡礼に来ていたチベット人僧侶(インドに亡命しているチベット人)たちと、たまたま一緒に座禅を組んだこともあったし、少年僧たちと混じってチベットの麺を食べたりもした。ネパール・シッキム・ブータンではチベット仏教の寺院をいくつも訪問した。
それから、甘粛省・夏河という地名がここ数日のニュースで何度も出てきて、数百人の僧侶がデモをしたそうであるが、そこにも僕は行った。夏河はチベット自治区の外に位置するのだがチベット人の街であり、ラブラン寺という大きなチベット寺院がある。そのお寺には外国人旅行者を安価で泊めてくれる宿泊施設があり、僕もそこに泊まったのだが、そこの管理人もチベット人のお坊さんだった。外国人を相手にするので片言だけ英語が話せる人だった。
そこを訪れる旅行者はほとんどが西洋人で、日本人は珍しかったらしく、その管理人のお坊さんが僕の部屋に話しにきてくれた。僕は中国語はほんのちょっとしか分からないし、彼の英語力はたぶんそれ以下で、なかなか話が通じない。お互い相手に興味があるのに、会話が成り立つレベルが非常に低いのでもどかしい。
今でもよく覚えているのだが、そのとき僕は彼にこう尋ねた。
「ウェイシェンマ(どうして)、ニー(あなた)、Monk(お坊さん)?」
中国語と英語を交えた3単語で、どうして彼が出家したのか訊いてみたのだが、しかし、言葉の通じない相手に訊くには重大すぎる質問である。言ってから自分の間抜けさに呆れたが、彼はちょっと考えてから、自分の胸を指差して、つまり「ハート」を示してから、握りこぶしから親指だけを上に立てる形を作って、「グッド」と言って微笑んだ。心に良いから、ということか。なるほど、出家する理由の核心なのかもしれない。僕が発した間抜けな質問に、僅か1単語と2ジェスチャーで彼は深遠なる回答を返してくれた。このやり取りは、13年もたった今でも鮮明に覚えている。
あのときのお坊さんは、この動乱の日々をどう過ごしているだろう。
下の写真はそのときに僕がラブラン寺で撮ったものである。写真に写っている当時15歳くらいの少年僧は今は28歳くらいか。この写真の中の誰かが、軍や警察に暴行され、虐殺されたかもしれないと思うと、悲しくて悲しくて、やりきれない。日本と世界は、あの非人道的国家に対して何か出来ないのだろうか。
- 2008−3−13(木)の夜
来週は春休みで、明日は担当している授業が無いので、僕にとっては今日から春休みのようなもの(といっても明日は会議が3つも入ってるけど)。これから10日ちょっとの間は授業を教えてなくていいので、ひたすら研究に没頭できる。
テキサスに戻ってきてから今までは、時差ボケに悩まされ、風邪をひき、溜まりに溜まった採点の仕事に追われ、ほぼ全く研究に手をつけられなかった。
時差ボケというやつは、症状の種類や重さがそのときそのときによってバラバラで、何によって決まるのだろうといつも疑問に思う。今回の場合は、午前中に眠くなる種類の時差ボケになり、昼くらいまで寝てる日が多かったのだが、しかし火曜と木曜は早朝8時からの授業を教えなければいけないし、それに加えて今週から夏時間になって時計が1時間進んで、更に早起きが辛くなった。でも、これからだんだん再適応するだろう。
- 2008−3−6(木)の夕方
オハイオとテキサスの2州での勝利でクリントン候補が「復活した」「息を吹き返した」と見るのは誤りで、「踏みとどまった」と見るほうが正確だろう。結局のところ、獲得代議員数の差はほとんど縮まっていない。さらに、依然として集計が遅々として進まないテキサス州の党員集会ではオバマ候補が大勝しそうなので、テキサス州全体では(予備選と党員集会を合わせると)オバマのほうが多くの代議員を獲得することも十分にありうる。これ以降行われる予備選がどんなにクリントン優位に進もうとも、(巨大スキャンダルがオバマに降りかかりでもしない限り)獲得代議員数でクリントンがオバマを逆転する見込みはまず無い。
そもそも、どの州でどっちが「勝利」したかということに注目するのは、この段階での予備選の本質を突いていないのである。代議員はほぼ比例配分されるので、接戦での勝利は代議員数にあまり違いをもたらさない。大票田の州で51%−49%の勝利を収めてもそれは代議員数人程度の差しか作らないので、それよりは小さな州で圧勝する方が大きな意味を持つのである。
例えば、アイダホ州は人口が少ないので僅か18人の代議員しか割り当てられていないのだが、そこでオバマが圧勝したので、なんとオバマ15−クリントン3、という結果になり、そこで12人の差がついた。オハイオ州には141人が割り当てられているが、そこまでの差にはなりそうにない(オハイオの最終結果はまだ出ていない)。
結局、大事なのは州単位での「勝利」「敗北」ではなく、何%の得票をして何人の代議員を獲得したのかである。それなのにメディアは「勝利」に拘って、各テレビ局は開票速報で「当選確実」(projection)をいち早くだそうとして頑張っている。それはきっと、勝者総取り方式の本選挙にメディアも人々も慣れ過ぎてしまっているからだろう。
(もちろん、メディアや人々が「勝利」に拘っているために、「勝利」することの心理的な効果はやはり存在する。特に序盤戦では。ちなみに、ニューハンプシャー州でクリントンが勝ったときは「劇的な逆転」と騒がれて、クリントンは勢いを取り戻したわけだが、実際の獲得代議員数はクリントン・オバマ両氏ともに9人だった。)
さて、これからどうなるか。約2割の代議員は、予備選の結果によって決まらない「特別代議員」で、彼らは実際の党大会まで態度を決めなくてもいいし、支持を変えてもいい。で、このままいくと、残りの州の予備選が全て終わった時点でも、特別代議員を加えずにはどちらの候補も過半数に届かない状況になりそうである。ということは、どちらの候補も譲らなかったら、党大会の本番で投票決着という異常事態になりかねない。党中央としてはそれは避けたいし、このままオバマ・クリントンの批判合戦が続いたら両者共に傷ついて、本選挙で共和党に勝利を奪われることになりかねない。
最終的には党大会の前にどちらかが降りて決着することになるだろうが、それはおそらく、「過半数獲得が無理になったから降りる」という通常の形とは違う形で起きそうである。大接戦になったことで今回の民主党予備選は面白かったが、その大接戦のために、あまりスッキリしない結末になりそうだ。
- 2008−3−2(日)の夜
今回の一時帰国は、学期中なのでなるべく短い期間で終わらせるようにした。木曜日の夕方に成田到着、翌金曜日の朝に大使館指定の医院で健康診断を受け、月曜日の朝に赤坂のアメリカ大使館で面接。面接自体は何も問題なく、待ち時間は長かったけど、領事との面接はすぐに終わった。
面接終了後にパスポートを受け取れるわけではなく、郵便で送られてくるのを待たねばならない。大使館のウェブサイトには一週間ほどかかると書いてあるが、インターネットで読んだいくつかの体験談によると翌日に届くようだったので、面接2日後(水曜日)の夕方に日本を発つ飛行機を予約しておいた。
しかし、火曜の夕方になっても届かないし、郵便局の追跡サービスに電話してみても、投函された形跡すらない。仕方ないから、大使館に電話することにした。ビザ関係の問い合わせには専用の番号があり、1回かけるだけで2千円ちょっとかかる。高額なサービスなんだからちゃんと対応してくれるだろうと期待してたのだが、全然そんなことなかった。ビザの部署で働いている人と話せるわけではなく、日本語がちょっと怪しいオペレーター(たぶん中国人)が電話に出て、頼んでも部署の人には取り次いでくれない。用件をその人に伝えて、後で連絡が来るのを待つしかないとのことで、しかも、「今日はもう4時半ですから、明日の朝になります」とか!仕方なく、問われるままに電話番号とEメールアドレスを伝え、「Eメールがチェックできないので、電話でお願いします」と頼んでおいた。
翌朝、いくら待っても電話がかかってこない。10時半頃、仕方なくもう一度2千円ちょっと払って電話。同じオペレーターが電話に出たので、どうなってるのか尋ねた。すると、自分は受けた問い合わせを大使館に送るだけなので、それにどういう対応が為されたかは自分には分からない、とのこと。高額の有料サービスなのにそれかよ!もう、アホかと。
で、もう一度大使館に情報を送ると言うので頼んだ。それから2時間ほど待ってたらようやく大使館から電話。「今朝の9時24分にメールを送ったのだが、見ていないのか」と言われた。なんだそりゃ。メールがチェックできないから電話してくれとオペレーターに言っておいたのに!その行き違いがなかったら二回目の電話をかける必要がなかったのだから、猛烈な無駄を食った。もう馬鹿らしくて馬鹿らしくて。
結局、金曜日にパスポートが届き、土曜日に飛行機に乗った。
大使館のウェブサイトに「一週間」と書かれてあったのだから、パスポートの届くのが僕の予想より遅くなったことについては文句は言えない。しかし、大使館の電話サービスはあまりにも馬鹿だった。何だったのかと。
- 2008−3−1(土)の深夜
先週から大急ぎで日本に帰国してきて、今日アメリカに戻ってきた。で、今回の入国時にアメリカの移民になった。といっても、アメリカ国籍を取ったわけでも、日本国籍を捨てたわけでもないし、その予定もない。今回、アメリカの「永住権」を取得してきたのだが、この資格を持ってアメリカに入国すると、アメリカの法律上は「新移民」として扱われるのである。僕の国籍はこれまで通り日本にある。
これまで僕は、専門職の労働者資格で働いてきたのだが、この資格は6年を越えて延長することはできない。それ以上アメリカで働きたければ、永住権を取るしかないのである。永住権を取ったら、法律上その人は「移民」とみなされる。世界には外国人をなるべく締め出そうとする国も多いが、アメリカは逆に、アメリカで長く働きたい専門職労働者には、アメリカに移民するように勧めているようなものである。不法移民をどうするかがこの国の大きな政治・社会問題になっているけれど、それとは別に、専門職・特別技術職の労働者についてはアメリカはどんどん移民を受け入れ続けているのである。(手続きはさまざまで、ノーベル賞級の学者などは他の資格の人々よりずっと簡単に永住権を取れるらしい。)
僕の場合、まだ永住権を取らずにこれまでと同じ資格で働くこともできたのだが、今回永住権を取れる機会ができたので、このチャンスにやってしまった。学期中であるが、授業はうまく日程を振り替えたりしてやりくりした。これまでの資格だと、例えば他の大学に移籍する場合は新しく労働資格を取り直さねばならなかったり、勤務先の大学以外から収入を得てはいけなかったりとか、労働に様々な制約がかけられていたが、これからはアメリカ人と同じような条件で働くことができる。
今日の朝、日本からサンフランシスコ空港に到着して、移民関係の書類の入った茶色の封筒とパスポートを手に、入国審査場までの長い通路を歩いていたとき、何だか胸がワクワクした。広い入国審査場には数十のカウンターがあり、「アメリカ人」「外国人」に大きく分けられて列に並んでパスポートのチェックを受けるわけだが、その他に「New Immigrants」(新移民)という列があって、僕はそっちに行った。新移民用のカウンターは1つだけで、インド人らしき2人が並んでいるだけ。僕のちょっと後にもう1人インド人らしき人が来た。彼らも僕と同じく、永住権を手にして新移民になる人々である。次回からアメリカに入国するときはアメリカ人と同じ列に並べるので、この列に並ぶことは一生に一度だけなんだと思うと、なんだか感慨深かった。
映画「ゴッドファーザー」の中で、少年時代のVito Corleoneが船でニューヨークに到着して、Ellis Islandで移民手続きをする場面があるが、待っている間それを思い出していた。歴史上これまでにアメリカに移民した人々が何千万人いるか分からないが、そのリストに僕も加わるのかと思い、11年前に初めてアメリカに来たときのことを思い出したりもした。
手続き自体は数分で終わった。右の人差し指の指紋を取られたのだが、電子式ではなく、インクを指につけて紙に押し付ける方法だった。そういえば、担当の係官の人は中国系だった。彼の親か先祖も、同様にアメリカに移民してきたわけだ。
パスポートに貼られた移民ビザの上に、日付の入った入国許可のハンコが押されて、手続き終了。数ヵ月後に「グリーンカード」が郵送されてくるそうだ。
(日本での手続きについても書きたいことがあるので、続く)
- 2008−2−12(火)の夜
オバマ候補の勢いがどんどん加速してきた。来月頭に行われるテキサス・オハイオでの予備選が更に重要になってきたので、これからテレビCMを多く見ることになるだろう。うちの大学に候補が来ないかなー、とちょっと期待してもいる。8年前は、MSUにマケインが来て見に行ったものだが、今回はどうなることやら。
さて、マケイン・オバマ・クリントンの3候補の誰かが来年1月に大統領になることが確実な情勢になっているが、考えてみると3人とも上院議員である。どのポストからが大統領へのステップアップをしやすいか、とかいう話がアメリカ政治研究においてされたりするのだが、そういえば上院議員から大統領になった例はしばらくなかったなー、と思いついて、ちょっと調べてみた。
以下、現在から過去にさかのぼって、大統領になった人の前職一覧:
・GWブッシュ…テキサス州知事
・クリントン…アーカンソー州知事
・GHWブッシュ…副大統領
・レーガン…(6年前まで)カリフォルニア州知事
・カーター…(2年前まで)ジョージア州知事
・フォード…副大統領
・ニクソン…(8年前まで)副大統領
・ジョンソン…副大統領
・ケネディ…上院議員
というわけで、3人のうち誰が当選するとしても、なんとケネディ以来48年ぶりに上院議員からステップアップする大統領が誕生するのである。今年の選挙はいろんな意味で異例だけど、そのうちの1つに数えてもいいだろう。
- 2008−2−5(火)の夜
数日前、裏庭の柵の一部が壊れてしまった。木製なのでだんだん弱まっていくはずのものであり、前からその部分が壊れそうになっていたのは気になっていたのだが、強風の日が最近多かったこともあって、ついに倒れてしまった。
業者に頼むことも考えたが、壊れた部分を自分で調べ、ウェブで情報を集めたりした結果、自力で補修できそうなことが分かった。何でも売ってるHome Depotで材料と道具を買い込んできて、いざ着手。杭の土台は、コンクリートによって地中で支えるのだが、自分がコンクリートを混ぜたりすることがあるとは、これまで思いもしなかった。水を混ぜるだけで使えるコンクリートの粉が売ってるので、それに水を入れて、シャベルで混ぜて、杭を立ててある地面の穴に埋める。やってみたら、そんなに難しいことではなかった。
補修工事はまだ進行中。でももうすぐ完成すると思う。これまで家の中と外のいろんなところを修理したりしたけど、これがこれまでで最大のプロジェクトである。同僚に、「柵の修理を自分でやってこそ一人前の男といえるんだ」と言われたけど、確かに自分でやることの満足感はなかなかいい。
- 2008−1−26(土)の夜
今日はサウスカロライナ州の民主党予備選。事前の報道からして、オバマ候補が勝つことは分かっていたが、彼の勝利後スピーチが見たくてテレビをつけていた。で、期待を裏切らないカッコいいスピーチを観ることができた。
これまでにも黒人の有力政治家はいたが、ここまで大統領の座に近づいた人はいなかった。従来の黒人政治家の多くが「黒人の代表」「黒人のため」という態度で活動してきたのに対し、オバマ氏は、黒人も白人もみんなが一緒になって変革を成し遂げるんだという主張を前面に押し出している。黒人人口が10%ちょっとしかいないこの国で、「黒人のために」と主張する候補が大統領になれるはずがないのは極めて当然であるが、これまでの黒人政治家たちには人種の枠を越えることはできなかった。
その理由の大きな1つは選挙制度にある。連邦下院の選挙は小選挙区制で行われるが、選挙区の区割りを決めるときに、不自然な形に境界線を引いて、黒人が多い地域を1つの選挙区にまとめ入れるということがよく行われる。そういう選挙区では、有権者の大多数が黒人になり、そのため、黒人の政治家が当選しやすくなる。連邦下院に議席を持つ黒人政治家の多くはそういう選挙区から当選してきている。
そのような不自然な区割りは、黒人の政治家を増やすという目的のためには効果的だろうが、黒人政治家のそれ以降のステップアップを妨げる効果も起こしているのである。というのは、有権者の大多数を黒人が占めるような選挙区で当選するためには、候補者はどうしても「黒人の利益を追求します」という主張を押し出さねばならなくなるのである。当選した後も、次の選挙で再選するためには、黒人有権者に常にアピールし続けねばならない。そして、そういう「黒人のため」的な主張と行動のために、それより上のレベルの職を狙うことが難しくなる。
その点、オバマ氏は上院議員である。上院議員は州単位の選挙区から選ばれるので、彼の場合はイリノイ州全域が選挙区であり、他の多くの黒人政治家が陥るジレンマを避けることができた。彼の場合はおそらくずっと前から大統領選挙までを視野に入れた活動をしてきたので、そのへんをうまくやってきたのだろう。
サウスカロライナ州での予想を上回る圧勝で、再びオバマ氏に勢いがついてきたようだ。これからの数週間は目の離せない展開になりそうだ。
- 2008−1−23(火)の深夜
新学期の第二週に入り、各授業も本格的になってきた。大学院の統計のクラスは今日が二回目で、先週はほぼイントロで終わったので今日からいよいよスタートという感じ。去年このクラスを初めて担当したときは、この第二回のクラスが終わった後は猛烈に疲労困憊して倒れそうになったものだが、今日はけっこうマシだった(もちろん大変疲れたが)。やはりだんだん慣れていくものだろう。説明もうまくできたと思うし、ちょうど時間ギリギリで予定していた内容を全て終えられたので、けっこう満足して帰宅した。この調子でずっといきたいものだ。
- 2008−1−18(金)の夜
春学期の第一週が終了。やはり休み明けはいろいろバタバタする。あと、僕は今年度は学部のExecutive Committeeの一員で、この時期は所属教員の査定の仕事が入るのでそれにも時間を割かれるのである。毎年の年末に各教員が過去3年間の業績を報告して、それを7人からなるExecutive Committeeが点数化し、その点数が昇給幅などに影響を与えることになる。
教員の査定自体はどの大学のどの学部でもやっているはずだが、その方法は場所によって様々で、学部長が1人でやることも多いらしいのだが、うちでは、教員間で互選された6人に学部長を加えた7人がそれをやる。「民主的」なやり方だ、と僕らは言っているのだが、確かに7人といえば全教員の約3分の1である。学部長が1人で全員を採点するようだと、きっと学部長への不満や反感も出てくるだろうが、7人が決めるとなると、多様な見方による採点が行われる上に、責任が分散されるから、不満の火種を作りにくいのだと思う。その分だけ僕らの仕事は多くなるけど、良いやり方だと僕は思う。あと、同僚たちの業績報告を読むことはいろんな意味で勉強になる。
- 2008−1−15(火)の夜
なんとか1日を乗り切った。授業中はやはり気が張ってるので大丈夫だったけど、家に帰ってきたらドッカンと疲労が襲ってきた。おやすみなさい。
- 2008−1−15(火)の早朝
ついに冬休みが終わってしまい、今週から春学期が始まった。昨日はさっそく会議があったりして、いろいろバタバタしていた。
で、今日から僕の担当するクラスが始まる。朝8時からという誰もが嫌がる時間のクラスを初めて受け持つので、昨夜は早めに寝た。しかし、たしか2時か3時くらいに目が覚めてしまって、それからどうやっても眠れない。おそらく原因は2つあって、1つは約一ヶ月ぶりの授業の前で多少緊張しているかもしれないこと。2つ目は、昨夜行ったタイ料理のレストランで、トムヤムクンの辛さを5段階のうち4番目に辛いレベルで頼んだらそれが猛烈に辛くて、腹がなかなか落ち着いてくれないこと。
眠ろう眠ろうとしてもまったくダメで、しかたないから大統領選に関する雑誌記事なんかを読んだりして、もう一度眠ろうとチャレンジしたけどダメで、結局起きて仕事した。捗ったからいいんだけど、これから出勤後に自分の身体に何が起きるだろうか…。
- 2008−1−3(木)の夜
オバマ上院議員が開幕戦のアイオワを制した。まだ「リード」とか「優位に立った」などとは言える段階ではないが、彼にとって願ってもない好スタートであることは間違いない。
オバマ氏は僅か3年半前までは全国的には無名に近い存在だった。2004年夏の党大会で行ったスピーチで一気に知られるようになった彼は、その時はまだイリノイ州の州議会議員に過ぎなかった。僕が彼の名前を知ったのもその夜だった。寮の自室で、テレビでは民主党党大会をつけながらも、パソコンに向かって別のことをしていた。テレビでは次々に政治家が登壇してスピーチをしていたが、誰が話しているのかも何を話しているのかも別に気にとめず、テレビには背を向けて、パソコンで何か作業をしていた。
しかし、そのうちふと、「何だか上手いスピーチをする人がいるなぁ」と思ってテレビのほうを振り返った。ハキハキとした独特の喋り方と、巧みな話の構成、そしてもちろん話の内容に、「この人は凄い」と思ったが、しかし誰だか分からない。テレビカメラが引いて会場全体を写したとき、客席で「OBAMA」というプラカードを掲げている人がいるのを見つけ、さっそくネットで検索した。
翌日になっても、オバマ氏のスピーチは強く印象に残っていて、確か学校で大学院の同僚たちにいろいろ訊いてまわった気がする。そして、民主党党大会のウェブサイトから彼のスピーチの音声ファイルをダウンロードして、それをCDに焼いて、運転中に車の中で何度も繰り返し聴いた。今でもたまに聴く。それ以来、オバマ氏に対しては僕は特別の思いを持っている。「好き」とか「支持」とかいうよりは「興味・関心」のほうだけど。
今夜のアイオワでの結果によって、いよいろ大統領選挙が面白くなってきた。これから11月まで、長く続くお楽しみである。
- 2008−1−2(水)の夜
今日の夕方、居間で息子をうつぶせにして遊ばせていたら、頭を横に向けてグーッと反らせる姿勢になって、そのまま観察していたら、そこからコロッと仰向けになった。初のうつぶせ→仰向けの寝返りの瞬間を目撃して大興奮。妻はそのとき夕飯の用意をしてくれていたのでその瞬間を見逃してしまったが、夕食後、今度は2人の目の前でもう一度コロッとやってくれた。元旦の離乳食開始に続いて、今日は寝返り。新年早々、息子の成長の様子を見ることができてとても嬉しい。
- 2008−1−2(水)の昼前
迎春 明けましておめでとうございます
大晦日は今年もテレビの日本語チャンネルで紅白歌合戦を観た。とにかく寺尾聰にシビレた!「ルビーの指環」がヒットしたのは僕が小学校に入ったかどうかくらいのときで、当時テレビの歌番組など好きでもなかった僕でさえ歌詞を全部暗記していたほどだから、それはもう凄まじいヒット曲だった。大学の頃にカラオケで唄ったこともあったと思う。いやー、今回の紅白での寺尾聰は渋かった。あの肩と腕の動き、そして表情。渋すぎて、観ていて背中に電気が走りまくりだった。
そして元旦。妻が作ってくれた雑煮を食べ、その後、これまで母乳のみで育ててきた息子に、ついにおかゆ(10分がゆ)を食べさせてみた。特に喜んだわけでもなかったが、嫌な顔もしなかったし、ちょっと口から出した以外は飲み込んだようだった。スプーンを口に近づけたら口をパカッと開けたので、それにはちょっと感動した。