日影 眩の「フログズ・アイ」             

 絵画は眼の高さを基準にして、必要に応じて幾らか高めに、あるいは低めに描くのが普通である。極度に高く描くのは、空や山のように高所にあるもの、または神仏や高位の地位にあるものを描く場合である。極端に低く描くのは、もちろん必要な場合に限ることで、それは非常に少ないと考えて差し支えない。 
 この美術史的な事実からすると、日影眩の地面的な極度にローアングルの絵画は異例中の異例に属し、独特のものと受けとめることができる。作為、誇張、厭味といったものは感じられず、この画家が正統な美術教育と人間としての教養を身につけた上で、この視覚を発見したことは、まったく疑えない。
 そんな弁明をまったく不要とするまで、1980年の最初の個展以来早や30年近く、彼の創出した画像世界は発展し、一つのドメインを形成している。それは筆だけでは描けない、またカメラによっては捉えられない現実を、動的なまま静止させて、その決定的なシーンを描出するのに成功している。ここには、わざとらしさ、歪曲、架空などのソフィスティケーションがほとんど見あたらず、むしろ不思議なほど画家の心情はナイーブで爽快である。 
 こう書いてきたところで、このソフィスティケーションという言葉の語源である5世紀ギリシャのソフィスト(詭弁家)と、その有名な箴言「飛んでいる矢は止まっている」を思い出す。これはとんでもない逆説だと言われてきたが、今日の先端物理学に即して再考するならば、それは詭弁でも何でもなく、逆に真実と解することが可能である。そしてそれはその儘、この画家のユニークな描法に妥当する。
 そこで改めて日影眩の絵画を眺めてみると、絵画の構図では、“バーズ・アイ”(鳥の眼=俯瞰)に対して、“フログズ・アイ”(蛙の眼=仰角)と言われるこの視覚は、文字通り、画家本人が“フログ”(蛙)の位置に身を置いて、人間の男女世界を見上げているわけである。何?蛙だって?と、試みに「英語イメージ辞典」(赤祖父哲二編 三省堂刊)を参照してみると、ギリシャ・ローマでは、この小動物は思いもよらぬ恋の女神ヴィーナス(アフロディテ)の表象である、と解説されている。かの名高い、「ミロのヴィーナス」もポッチチェリの「ヴィーナスの誕生」も、皆、その豊饒性ゆえに蛙によって表象されていたのである。

瀬木慎一(美術評論家)

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